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 毎日電車に乗って会社に行き、仕事終わりには好きなレストランや居酒屋へ仲間と行ってワイワイと楽しく騒ぐ。休日には行きたいと思った場所に旅行をし、芝居やコンサート或いは好きなスポーツを観に行く。そんなふうに何の疑いもなく普通に過ごしていた日常生活が、新型コロナウイルスによってできなくなった。当たり前のことが当たり前でなくなってしまったのである。戦時中とかであればまだしも、これだけ全てのものが進歩して何をするのも自由な現代で、こんなことが起きると誰が想像できただろうか。身体は元気で仕事をしたくても仕事をすることもできず、食事に行くことも友達と会うことも叶わない精神的な辛さは相当なもので、当たり前のことが当たり前にできていた普段の生活がいかに有り難いものであったかと改めて感謝した人もいるかもしれない。 


 私もここ2年半ほどの間に、この当たり前のことが当たり前にできていた生活の有難さを思い知らされた人間である。それは私がALSという病気を宣告された日から始まった。ALSについては今までアイス・バケツ・チャレンジという言葉を何かの記事で読んで多少は知っていたが、まさか自分がそんな病気になるとは思ってもいなかった。


 2016年頃より右脚に違和感を感じ何となく歩きにくくなっていたため、大学病院や有名な整形外科等、幾つかの病院でレントゲン検査、MRI、CTスキャン等の検査を受けたが、結果はすべて「特にどこにも異常はありませんね!」であった。だがその間にも私の脚は確実に悪化し、転ぶことも何度かあってすでに杖を使わないと歩けなくなっていたのである。そして最終的にたどり着いた神経専門の研究病院で初めて病名を宣告されたのである。

 宣告された時のことは今も鮮明に覚えている。入院して全ての検査を終えた退院の朝、担当医師、担当医助手、担当看護師の待つ部屋に呼ばれた。

 担当医師が淡々と説明を始めた。「検査お疲れさまでした。検査の結果をお伝えします。病名は筋萎縮性側索硬化症、通称ALSといわれる日本では9000人ちょっとしかいない難病です。まあ今はネットでもすぐに調べられますからお伝えしちゃいますね。この病気は運動ニューロン障害、神経の病気で徐々に全身の筋肉が動かなくなり、呼吸器の筋肉が動かなくなったら残念ですが・・・・。通常は発症からそこまでが3~5年、もちろん個人差はありますが、つまり発症からの余命が3~5年ということになります。原因は解明されていません。治療法も今のところありません。延命治療をされるかどうかは今日でなくても構いませんが早めに決めておかれたほうが良いかと思います」と。ただ脚が動きにくいだけの状態だったので、思いもしなかった病名と余命宣告に最初は何を言われているのか誰のことを言われているのか理解できず、茫然自失というのはこんな時に使う言葉かもしれない。


 しかし、その日からの私の体の状態の変化というか病気の進行はすさまじく、身体の動かなくなる箇所がどんどん増えていった。朝起きてみると、昨日までできていたこと昨日まで動いていた腕が指が動かなくなっていく恐怖、そして明日はどこが動かなくなるのだろうという不安は言葉では言い表せないものだった。車の運転ができなくなり車椅子でないと移動もできなくなった。食べたいものを食べるにも一人では行かれず、それどころか入浴やトイレも一人では行けなくなってしまったのである。これまで特に何を考えることもなく当たり前にしていたことが当たり前にできなくなった。当たり前ということが如何に有難いことであるか、できなくなって初めて実感したのである。


 もちろん、そんな当たり前のことが当たり前にできない不自由な生活に最初は絶望感で生きる気力もなくしていた。驚いたことに、丁度この文章を書いている時にALSの女性患者の依頼で薬物を投与した嘱託殺人で医師が逮捕されたというニュースが流れてきた。同じ病気を持つ者として本当に悲しいニュースだった。ただ、その女性の気持ちは痛いほど分かる。生きるためには全てを家族やヘルパーさんに24時間助けてもらわなくてはならず、コミュニケーションも目の動きによる文字盤での会話であったり、病気の進行次第ではその目の動きもなくなってしまうとしたら伝えたいことも伝えられない完全に閉ざされた世界になってしまう。自分が生きることは周りの大勢の人に迷惑をかけるだけ、今の仕事も続けられないし、そこまでして生きたとして自分が生きている意味、価値はあるだろうか。この病気の特徴は全身が動かなくなっても最後まで頭の働きだけは病気になる前と変わらないので、余計に身体の面倒をみてもらう恥ずかしさも含めたそんな葛藤があるのである。


 私も病気を宣告されてから食事も喉を通らなくなり半年で体重はあっという間に10㎏程落ちた。そんな時、入浴をさせてもらうために行くようになったのがデイサービスだった。私も若くはないが、そのデイサービスに通っている人たちは私以外全員が私の親のような歳の人たちだった。最初はそんな中に入ることに抵抗もあったが、行くたびに毎回同じ話ではあるが楽しそうに話しかけてくれる皆さんの笑顔に心が癒された。そしてその施設のスタッフの方々に言われたのです。辛いでしょうがこれからますます体は動かなくなっていくのです、遠慮したり恥ずかしがっていないで人にやってもらう勇気を持ってください。そして、この病気になったからこそできること、この病気でなければできないことがあるから諦めた生き方をするのではなく、気持ちを切り替えて一緒に頑張ってみませんかと言われて心が決まったのである。


 現在、私は両手両脚が動かず口からものを飲んだり食べたりをすることもできないため、胃ろうから栄養を摂取している。気管切開により人工呼吸器を装着した生活をしている。ただそのために声を失ってしまったので話すことはできず、手が動かないためこの文章も視線入力で書いている。確かに健常だった頃に比べると多少は生活の仕方は変化したが、今は訪問医師、訪問看護、訪問入浴、理学療法士さん、作業療法士さん、ヘルパーさん、夜間重度訪問介護の皆さん他、一週間に四十名以上の皆さんが私の手足となって支えてくれているので、健常者のときには考えられなかった新たな目標を持つこともでき充実した日々を過ごしている。


 以前にも書いたが、人間一人の体ができることには元々限界がある。たとえ自分の体が動かなくなっても負けない強い気持ちを持っていれば、様々な機器や専門分野の知識を持った人がサポートしてくれてそこからまた新たな世界も広がる。当たり前にできたことが当たり前にできなくなった時こそ、考え方を変えれば今まで思いもつかなかったことを思いつく良い機会かもしれない。


 ただ・・・口から栄養を摂れない私には・・・唯一・・・、世間が一斉に自粛生活が始まってからテレビで連日放送されている、全国の名店の美味しそうな食べ物のお取り寄せやテイクアウトを紹介する番組を見るのだけは辛い・・・・・笑

2021年もいろいろなことがありました。

☆全国高校野球甲子園春夏の大会が2年ぶりに開催されました 

☆熱海土石流災害という自然災害と人災の痛ましい事故がありました 

☆眞子さま、小室圭さんが結婚されました☆大谷翔平さんの大活躍もありました・・・etc.


そんな中でもやはり一番大きな出来事は、東京オリンピック・パラリンピックでしょうか。

私は人生で二度東京オリンピックを観ることができましたが、

前回の東京オリンピックの時はまだ小学四年生でした。

父親の面会のために長野から出て来ていた築地癌センター病院の病室で、

空に描かれた五輪のマークを見ていた記憶が蘇ってきました。


それにしてもオリンピックを観ていると、

どんなに努力してきても一発勝負で勝つか負けるか、

記録でわずか0.01秒の差でも運命がガラッと変わってしまうなんて、

スポーツの世界は本当に残酷ですね。

でも勝者の涙も敗者の涙もどちらも美しくて見ているこちらが何度も泣かされました。


いろいろありましたが、結局は今年もコロナに始まりコロナで終わったような一年でしたね。


さて私は今年で胃ろう造設と気管切開をして今年でちょうど二年が経ちました。

そしてNPO法人TUMUGも12月23日で設立丸二年になりました。

設立と同じ時期よりコロナが流行し始めてしまい

当初の目的・目標は未だに満足に達成することはできておりませんが、

これからも今できることを探しながら前向きに進んでいきたいと思っております。

今年一年お世話になり、誠にありがとうございました。

2022年も暖かく応援していただけますようお願い申し上げます。


・・・◆無駄話◆・・・

暇にまかせてネットを見ていたら面白いのがあったので( ´∀` )


『18才と81才の違い』

●東京オリンピックに出たいと思うのが18才、

 東京オリンピックまで生きたいと思っていたのが81才

●道路を暴走するのが18才、逆走するのが81才

    (最近は81才も暴走してるけどね)

●心がもろいのが18才、骨がもろいのが81才

●偏差値が気になるのが18才、血糖値が気になるのが81才

●まだ世間をあまり知らないのが18才、もう何も覚えていないのが81才

●自分探しの旅をするのが18才、出掛けたまま分からなくなって皆が探すのが81才

●ドキドキが止まらないのが18才で、動悸が止まらないのが81才

●恋で胸を詰まらせるのが18才、餅で喉を詰まらせるのが81才


皆様、2022年もどうぞよろしくお願いします。







森元さん


今年も残すところ僅かになってしまいましたね。

お手紙の内容から癌の治療の様子よく分かりました。

治療のペースができつつあるようで良かったです。


以前お話ししたように私の父親も癌だったのですが、もう半世紀以上も前のことでしたから

当時は抗がん剤もなく、癌治療は手術での切除だけでした。

まだ40代だった父は進行も早く、80㎏以上あった体重も何度かの手術の末、

最期には35㎏程になってしまっていました。

今の医学ならもっと良い治療法で助かっていたかもと思うと・・・残念です。


抗がん剤も次々と良いものが開発されているようで、苦痛とされていた治療もどんどん負担が

少なくなって完治する患者さんも多くなっているといいますから素晴らしいことです。

と言っても実際に治療をされるご本人の精神的な辛さ大変さは変わらないかもしれませんが、

どうぞ負けずに完治まで頑張ってくださいね。


『自主退院の話』

私のたった一晩での自主退院についてお話しますね。何故・・・ですよね?

確かに以前別の病院で一週間の検査入院を無理矢理三日で退院したこともあるほど、

元々入院が嫌いなのは事実です・・・(笑)。

でも今回は私のわがままだけではなく、

簡単に言うと余りにもその病院の看護師さんの態度・対応が酷くて、

このまま入院していたら死んでしまうと思って逃げ出したのです

・・・有名な大学病院なんですよ。


痰が詰まって苦しくて、(私のような身体の不自由な者が使えるナースコールも用意してもらえなかったので)通りかかるナースに目で必死に訴え続けました。

私の顔も見ているから絶対に気づいているはずなのに、みんな無視して通り過ぎていきました。ようやく来てくれたと思ったら「なんなの?忙しいんだからいつでも思い通りにすぐにやってもらえると思ったら大間違いだからね!」と凄い目で睨まれたのです。

なんなの?と言われても私は喋れないし、見れば苦しがっているのはわかっているのに!!!

これが救急搬送で運ばれてきた人工呼吸器を装着した患者に対する扱い???

他にも暴言や乱暴なケアもたくさんありました。

同じ病室の他の患者のアラームが鳴っていても誰も来ないから

確かに忙しいんでしょうが・・・!

(ちなみに私の病室はナースステーションの前で、アラームが鳴っていてもステーションではナース達が大声で笑いながら楽しそうに雑談してましたけどね!)


確かに今回は夜間の緊急入院、それも病床が一杯で本来なら100人待ちというところを

訪問医の先生が病院のドクターに頼み込んで無理に入院させてもらったという状況、

コロナで看護師さんも疲弊しているのも解ります。それにしてもあまりに酷い扱い、

時計もないし鳴り続けるアラーム音と他の患者のうめき声を聞きながら、

朝が来るまで一睡もせずひたすら苦しさに耐えた夜でした。


病気の治療と仕事

周囲の理解を得て病気の治療をしながら仕事を続けるお話ですが、

抗がん剤治療をしながら仕事もされているとのこと、森元さんらしいです。


私もALSを宣告された段階では歩き難くなっていただけでしたし、

どのタイミングで取引先や仕事仲間のみんなに言うか悩みました。

病気が進行して車椅子になっても、話すことやパソコンはまだ今まで通り普通にできていましたので、取引先には「申し訳ありませんが脚がちょっとおかしくなってしまって、歩けなくて打ち合わせに行かれないんです」と言って事務所に来てもらったり、電話で何とか済ませてもらいました。

ただ翻訳の仕事はデスクワークでも何とかなったのですが、

イベントの仕事は、打ち合わせもですが、特に本番は現場に行かないと分や秒単位でしなければいけない指示もあって、徐々に厳しくなってしまったのは事実です。


このNPO法人の設立の際の挨拶にも書きましたが、私にとって仕事は人との出会いで、

一人でも多くの人に出会いたいと自分から積極的に動いて生きてきました。

多くの人と出会うことで自分の知らない世界を教えてもらって成長させてもらってきました。

それが全身が動かなくなり話すこともできなくなる病気になってしまった。これからは自由に自分の足で会いに行くことも、そして声を失うことで対面はもちろん電話で話すこともできなくなる、と思ったら病気のことを知らせる勇気がなかったのです・・・その状態になるギリギリまでは。

ましてや治療法もなく進行はしても治ることがない病気で、大好きな仕事がなくなること、大好きな仕事仲間と今まで通りに仕事ができなくなることが怖くて。


追記:

またまた長文失礼しました。長文ついでに(笑)森元さんに

「中島さんにとって今年を漢字一文字で表すとなんですか?」と聞かれていましたね。

考えてみましたが…【慣】かな。


*世間の皆さんはマスクを着けてのwithコロナの生活に慣れ、

私は曜日ごとに決まった介護サービスをしてもらう寝たきりの毎日のwith ALS生活も二年。

身体もその生活スタイルにようやく慣れました。